信頼のできる錨

「トランスポート」,運輸省,Vol.33,No.12(1983.12),pp.10-13より

東京大学生産技術研究所 / 教授 浦 環


 西洋でも、日本でも愛用されている三つのマークがある。ハートと十字架と 錨である(佐藤宣平、海の英語研究社)。街を歩く若者たちの服にちょっと目 をやれば、いつでも見付けることができる。それぞれは、次のような心の綾を 映し出しているはずである。

ハートと十字架はさておいて、錨とはいったい何であろうか。どのように苛酷 な風雨にさらされても、錨や錨綱がしっかりしていれば、船は流されない。直 面する山のような困難に対する最後の希望をつないでいるわけだ。帆以外に推 進装置を持たない昔の船にとって錨が効くか効かないかは運命を左右する重要 な分岐であったはずである。汽船が帆船にとってかわり、扱いやすいストック レス・アンカーが形の大きなストック・アンカーにとってかわった二十世紀に なっても、錨は(ストックレス・アンカーは)希望と信頼の象徴たり得ている のだろうか。


ストック・アンカー

 1840年頃、Hawkinsは、二本の爪が上下に固定され、長いストックを持 つ旧来のストック・アンカーに代わって爪が回転する新型の錨を考案した。そ の時から、ストックレス・アンカーの歴史が始まる。19世紀末、Hall's そ の他の商業用アンカーをモデルに多くの試験を重ねて、英国海軍はASSアンカー (Admiralty Standard Stockless Anchor)を開発した。これが現在、日本の JISに規格化されているストックレス・アンカーの原型である。しかし、英国 蟹軍はASSアンカーが引けて困るという理由で見直しの研究を第二次世界対戦 中から行い、1960年AC14(Admiralty Cast Type 14)アンカーを世に出し た。


AC14アンカー(左)とJIS型アンカー(右)

 旧型のものに対してAC14アンカーは、爪面積が広くとられ最大把駐力係数 (注1)も大きく、船級協会では、これらを区別して 高把駐力アンカーと呼んでいる(注2)。AC14アンカー は日本でも大型船の一部に使われている。ASSアンカーあるいはJISに規格され ているアンカー(以後JIS型アンカーと呼ぶ)が引けて困るという原因は何であ ろうか。AC14アンカーは何が改良されているのであろうか。前者の問は以下の 三点をあげることで答えられる。

  1. 投錨して引いても爪が海底土に入らないことがある。
  2. 最大把駐力係数が小さい。
  3. 爪が海底土に貫入しても、アンカーが引かれて移動すると回転して爪 が上を向いて抜けてしまう。
 すなわち、錨の性能を信用できないのである。AC14アンカーは設計上の工夫 で、これら欠陥をそれぞれ解決しようとしている。

 錨に対する考え方は、錨が専用の安全装置ではないので救命艇などの緊急用 装置に対する考え方とは若干異なる。出入港時などで常時使用される。平常時 の使用に関しては、現状のJIS型アンカー程度の能力でもこまらないのである。 必要なのは

  1. 堅牢であってこわれない。
  2. 投揚錨が容易である。
の二点である。効き過ぎて揚錨しにくい錨、あるいは重過ぎる錨は、錨作業の 手間を増すのでかえって敬遠される向きがある。すなわち、通常の作業におい ては爪が海底にしっかりとくいこまなくても良い場合が多い。

 一方、荒天時には、錨の性能は安全にとって重要な一要素となる。なぜ一要 素であるかと言えば、荒天時に船が、風・潮・波に耐えるために使用するもの は錨のみではない。プロペラによる推力・舵・トリムや喫水の調整・泊地の選 定などを武器に荒天と戦うのである。従って、「錨の性能に不安があったとし てもなんとかなる。なんとかせねばならない。」と多くの人は考えるのである。 荒天時での推進装置の役割は少なくないのである。また、錨鎖の効果が大きい と考えている人もいる(この考えは必ずしも正しくない)。

では、機関も止まり、舵も効かなくなった状態でも、走錨しないような錨量 が必要であろうか。この問への答は、安全に対する考え方によって変わるわけ で、行政的な指導・船主の安全への配慮等によって大きく左右される。安全へ の配慮を十分にして事を起こすと、先に述べた平常時のオペレーションや初期 コストに負担をしているため、それでもって当然まもられるはずの側からも敬 遠・反対されることが多い。緊急時にのみ持ち出して使うものならまだしも、 錨とかイマージョン・スーツなどの常時使用するものは、安全を多少犠牲にし てでも、より手軽なものが期待される。錨のように長い歴史を持つものは、よ り改良しようとしても「現状で良いではないか」という保守的な考え方になか なか打ち勝てず、開発意欲は後退させられることとなる。しかし、技術の進歩 に伴い不十分な性能のものをより良い性能のものに代えてゆき、安全性をより 向上させねばならないのは当然のことである。先にも述べたように、錨は平常 のオペレーションにも深く関係するために「荒天時の不安は、シーマンシップ といわれる技能でカバーすれば良いのだ」という考え方が強い。したがって、 錨の性能にたとえ不安があっても船員側からは不満の声が上がらないのが現状 である。


錨を引いたときの錨の変位と把駐力の関係

 爪が海底に入らなければ、錨は単なる鉄の塊であり、最大把駐力係数は1以 下である。これでは碇であって錨ではない。また、一旦爪が、入ってもすぐに 転んでしまう場合も同様である。海洋構造物の係留のように十分な錨量を備え、 錨が動くことが全く考えられない場合には錨の回転・転倒は考慮しなくても良 いのかも知れないが、船舶の係留の場合には、現在の錨量とくり出される錨鎖 量では錨の移動をどんな場合にでも零にするのは困難である。したがってJIS 型アンカーの支え得る把駐力係数は錨が転んでいる状態、すなわち爪が上を向 いた状態を対象として1以下と見積もらねばならないことになる。

 荒天時の把駐力係数が、1.0でよいという程の重量の錨量を船が積んでいれ ば安全上問題はない。現実にそのような錨量を積んでいるかどうかは十分な検 討を要する。これに答えるには、先に述べた錨泊時の安全の哲学が関係するの でここでは明快には答えられないがおそらく否定的であろう。

 仮に、把駐力係数が1.0でも十分だとするとJIS型錨の爪が海底土に入りやす くし、安定性を改良すれば最大把駐力係数をヘドロ状の海底・岩盤・硬質粘土 などの海底以外では、3.0以上に見積もることができ、錨重量を1/3以下にする ことができることになる。

JIS型アンカーの改良案

 JIS型アンカーがどういうデザインで欠陥を生じているかを以下に具体的に 示したい。


アンカー・ヘッドが回転する機構


シャンクまわりに回転した状態の錨が海底土から受ける力  A 海底土に爪が入りにくい理由には二つある。アンカー・ヘッド部の耳 (トリッピング・パームとも言われる)の形が小さく、爪をヒンジ回りに回転 させるモーメントが小さい。また、ヒンジの回りのすき間に海底土がつまりや すく、爪が正常に回転することをさまたげる。

 B クラウン部及びシャンクが大きくできていて、堅牢ではあるが、逆に爪 面積が小さくなってしまって、最大把駐力係数を下げる結果となる。また、耳 が爪に対して、ほぼ直角な面を持つために錨が深く貫入することを妨げる結果 となり、錨は海底土表面近くに止まる。それは、逆に揚錨に要する力を小さく し、操船者にとっては都合はよい。

 C 耳の部分が小さく、爪の間隔が広いために安定性が悪い。すなわち、わ ずかに引かれただけで転倒する。転倒のメカニズムは次のように説明される (注3)。わずかに回転した状態は図3のようだが深 い側の爪に大きな下向きの力が作用して、錨はますます傾くようになる。小規 模の改良でこれを防ぐには、耳を大きくすればよい。

 Cに関しては、比較的小規模は手直しで改良できるが、A,B項は簡単ではない。 Aを改良するには、アンカー・ヘッドとシャンクをつなぐヒンジ・ピン周囲の 設計を大きく変えねばならない。またBを補い最大把駐力係数を大きくするた めには錨全体の設計を修正せねばならないこととなる。

 走錨事故として有名な洞爺丸事故当時問題になったのは主としてA項であり、 それを改良するための検討がなされ、航海学会誌に論文の形でまとめられてい る。そこでは、爪と耳の部分を大きくすることを提案しているが、ヒンジ・ピ ン回りの形状については検討されていない。

錨の開発

 現在のJIS型アンカーを、わずがな改良によって真に信頼のできるものへと 改良することは困難であることがわかった。したがって、海洋国日本の錨のス タンダードとしてふさわしい錨を新たに開発、あるいは、設計する必要がある。 そのときに、どのような性能を仕様として要求するかが重大な問題となる。こ れまでの事情から考えて、錨の性能に対する仕様が過去にはなかったと言って 良いであろう。そこで、信頼される錨の性能として考慮せねばならない要件を 列記するならば筆者が以前から主張している次の七点である。

  1. 確実に爪が海底土に貫入すること。
  2. 最大把駐力係数の値
  3. 錨が移動しても、回転、転倒しないこと。
  4. ベルマウスに収錨しやすい形であること。
  5. 揚錨に過大な力を要しないこと。
  6. 堅牢であること。
  7. 強度が十分であること。
 このうち、第二項では具体的な値を示していない。なぜなら最大把駐力係数 の値が極端に大きくなるような設計にすると、爪等の板厚が減る結果となり強 度上に問題が出る。したがって、最大把駐力係数の要求値は、(4)〜(7) 項とのバランスを十分に考慮して決めねばならない。通常の海底土に対する最 大把駐力係数の下限の値が定まり、安定性と爪の貫入が保証されれば、艤装数 に関連して要求される錨重量は安全に関する哲学にもとづいて自ずと決定され るはずである。

 これらのすべての項目に対して満足な結果を示す錨こそが、真に使いやすく 信頼のできる錨であると考える。錨の力学に関する研究が進歩しつつある現在、 問題のあるJIS型アンカーを廃止して新しいデザインをおこなうべき時点にあ ると筆者は考えるのであるが、いかがなものであろうか。

注1)アンカーを海底で水平に引いた時の抵抗する最 大の力を最大把駐力と呼び、それをアンカーの空中重量で割った値を最大把駐 力係数という。摩擦係数のようなものである。

注2)AC14アンカーは錨の要件(1)〜(3)には優 れていると言えよう。しかし(4)〜(7)について十分に満足できるものか を疑問視するむきもある。

注3)転倒する事実は古くから知られていた。しかし、 その力学的メカニズムは近年になって筆者らにより明らかにされた。



Last modified: Fri Jan 31 09:54:26 1997

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